問い一内容紹介より「わたしって何?」
本書は、自ら考える自分の思考を「自」と呼ぶところから始まります(5ページ)。
指先、腕、目、心臓、脳……。体の各部分は思考しておらず自ではない、と一つずつ確かめながら、考えている自がどこにあるのかをたどります(30〜33ページ)。
目次から
- 自を考える自5ページ
- 私とワタシ12ページ
- 自の場所30ページ
- 私という物質である人間と、自という思考を分けて考える33ページ
- 自の確認39ページ
著者の内容紹介に挙げられた四つの問いと、目次にある問いを一つ取り上げ、本書のどこで扱われているかを紹介します。目次の項目とページは本書のとおりです。
本書は、自ら考える自分の思考を「自」と呼ぶところから始まります(5ページ)。
指先、腕、目、心臓、脳……。体の各部分は思考しておらず自ではない、と一つずつ確かめながら、考えている自がどこにあるのかをたどります(30〜33ページ)。
目次から
幼い著者は長いあいだ考えた末に、「他の人って、まず本当にいるの?」という問いにたどり着きます(27ページ)。
本書は、自以外のものを在るとも無いとも決めず、存否が不明な「仮に自の他」として「仮他」と呼びます(12ページ)。著者は、他を「否定」しているのではなく「不明」としているのだと、くり返し断っています。
目次から
見える物、触れる物は、感覚を通じて捉えられたものです。本書は感覚を思考とは異なるものとして自と分け、物や感覚の確かさを問い直します(35〜75ページ)。
続いて、自が不安定になる原因を分類し、一つずつ取り上げていきます(76ページ〜)。
目次から
時間は「過去→現在→未来」と一方向に流れるもの、と教えられることが多いものです。本書は、それ以外にも多様な時間の捉え方があることを、例を挙げて示します(170ページ〜)。次の一行も、本書が挙げる捉え方の一つです。
「過去」は無い。「今」はある。「未来」は無い。
目次から
本書の後半では、言語と思考の関わりが取り上げられます。弟が生まれると母から聞かされたあのとき、自分の自に思いを馳せた数秒間を、著者は「あのときは明確に言語ではなかった。非言語であった。」と振り返ります(235ページ)。
目次から
本書では、ふだんの「わたし」「あなた」と区別するために、いくつかの言葉を独自の書き分けで使います。読み進めるときの手がかりとして、本書の中の定義の文をそのまま引きます。
本論では自らを考える自分の思考を「自」と記す。
「私」という在り様と「自」という在り様は混淆されやすい。「私(自分)」という既存の単語と別に「自」という表記を用いる所以がここにある。
よって自と自以外を区別し、存否がまだ不明なので「仮に自の他」を「仮他」と表す。
強く断るが、「認められない」とは「否定」ではない。「不明」である。
一般的に、人間はたくさんいる。この中に論者が居ると為す場合これを「私」と書く。それ以外の人々の一人称を「ワタシ」と書く。
漢字表記「自」「私」等は論者が用いる際の第一人称、カタカナ表記「ジ」「ワタシ」等は論者以外が用いるとした際の第一人称である。
自のことである、ジのことは不明であり一切を述べていない。
「カミ」と記述するが宗教の「神」のみでなく、あやふやな事柄や説明のつかない事柄を全て包含し飲み込んでくれる何かわからない仮想事物を指していう。
本書は章に分けず、110の項目を順に積み重ねていく構成です。
数字は本書のページです。巻末に「あとがき」(302ページ)があります。
本論を見、展開する論者が解離性障害や統合失調症などの心の問題を患っているかと案じていただかなくとも大丈夫である。どちらかというと論者はそれを調べている側の立場であり、近隣者から患っていると慮られた事も無く、また一応自己判断してもそれらの障害ではないと自負している。本論の展開は「その様に感じられる」ではなく「その様に考えられる」という思考遊びに近い事柄である。よって「自分が自分のように感じられない」とか「他の方がそこに居られるように感じられない」とか「自分が他の人と違う特殊な存在と思えてしまい、他の方と同じ人間の様に感じられない」という深刻な訴えや症状の主観ではない。それよりも「自分が自分の様に感じられないとおっしゃる事があっても何らかの事由があろう」とか「他の方がそこに居られるように感じられないとおっしゃることがあっても何らかの事由があろう」とか「自分が他の人と違う特殊な存在と思えてしまい、他の方と同じ人間のように感じられないとおっしゃることがあっても何らかの事由があろう」その他の「ワタシ」や「ジブン」や「ヒトサマ」についての在り様に関して述べたもの、すなわち客観とする方が適当であろう。事物の考え方についての一形式に過ぎずモノローグに近い。無論、想像昂じて本論を他人に押し付けようであるとか声高に宣伝しようとかする気も皆目無い。あくまでつたない思い出話やひとり言程度の書き物に過ぎない。
人は以前の記憶を持つ様だ。私という存在も以前の記憶を持つ。古い記憶を思うとき、ある違和を以前から感じている。
弟というものの存在が明らかにされたあの瞬間まで、母と私とは同一だった。「同一」という考えすらも入る余地が無いほどに同一であった。母と離れて歩くこともあったし、母と離れて同年代の子どもと遊ぶこともあったし、当然母に叱られたり、腹を立てたりすることも当然あったが、その様なことを超えて同一であった。3歳になる少し前のある日、母におんぶされ、ねんねこを眼の高さより少し高いところにまで掛けられ、かろうじて智源寺の巨大なお地蔵様の顔が見える状態で、手に持たされたチーズを食べながら呑気に母の体温の快適さの中にいたときである。あの時を境にして私の世界が変わった。母から「おとうとがもうすぐできるから、仲良くしてあげてね」と聞かされた。
(このあと本文は、弟の出現を聞かされた幼い「私」に「他」への疑いが生じ、自と他の違いを考えはじめる経緯へと続きます)